在職20年、介護20年。
生きる支えを失って暗中模索の末出会ったもの。
それは
・・・・・「俳句」・・・・・
「私なんかが(紹介されるなんて)・・・へへへ・・・適当に書いておいて下さい。」と
恥ずかしがるSさん。
一言「俳句の醍醐味はなんですか?」と問いかけると
「自然を見る目で人を見れる事」 という言葉を皮切りに堰を切ったように
「『人との付き合い』も『自然との付き合い』も同じなの。」
「俳句を詠むとき、自然の良い所、素晴らしい所・・目に見えない部分を言葉にします。
俳句を続けていると自然と、人と会った時にも人の目に見える表面的な部分じゃなく、
目に見えない所を自然と見るようになってきます。」
「そして俳句の一番良い所は、たとえ病気になろうとも人生最後の瞬間まで詠むことが出来る。
(自分を)爆発させる事ができます。
それは『人間は死ぬまで勉強しなければならない動物だ』という事でもあると思うの。」 と
一気に話され、そして我に返り「あら、私ったら・・・」という風に恥ずかしそうに笑われました。
この時のお話される勢いで、Sさんの中にもっともっと深い俳句に対する思いがある事が
痛いほど感じられました。
そんなSさん。
俳句に出会ったのは60歳を2年ほど過ぎた時。
それまで俳句に縁も興味もなく
「文字通り60の手習い」で始められたそうです。
同居していたお姑さんが倒れられ、迷う事なく20年の教員生活を辞して介護に専念されました。
献身的な介護は在職期間と同じ20年。
平成元年1月にお姑さんを見送ったあと、
辛かった事や苦しかった事も沢山あったはずの介護が自分の中の生きる支えになっていた事に気付き、
しばらく虚脱状態のような日々を送られてました。
そして自分がもう60に手の届く齢になっているのに気付き愕然とし、
これからの人生の残り時間を自分自身のために使いたいという思いが込み上げてくるのを押さえ難く、
色々と模索してみられたそうです。
お琴・三味線・お習字・・・。
色々なものに挑戦してみましたが「何か違う」
心を打ち込むという程のものが見当たらず悶々としていた時、
一冊の句集『柚子の空』とその作者である三木 照恵先生と出遭われました。
平成4年4月の事でした。
それからはどこへ行くにも紙と鉛筆を携帯し、ひたむきに俳句作りに専念されました。
またアマチュアカメラマンでもあるご主人様は、長期にわたったお姑さんの介護の労をねぎらって
四季を通じて日本各地を2人で旅行するという心遣いをしてくださり、
お陰で豊富な句材に恵まれ、行く先々で俳句を詠むことが出来たそうです。
そして
平成8年8月には句集『蔵』を出版するまでになられました。
この句集名になった『蔵』は
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によるものだそうです。
また数々の賞を受賞されていましたが
平成11年度の櫟賞を『小心の鬼』で受賞されました。
その時
「俳句を作っていて良かった、生きていて良かった!」という喜びの言葉と
「私の句作は『人生を再確認することにほかならなかった』」という言葉を
残されています。
受賞された『小心の鬼』の沢山の句の中から3句お好きな句を選んで頂いたのが下の句です。
好きな言葉は『根気』と『緊張』。
「俳句は紙と鉛筆1本あれば出来るの。
特別に構える事もなく、自分の思いを言葉にでき
そして何をするにも良い意味での緊張感を持てるの。
台所に立ってる時でもお茶を淹れている時でもね。」
・・と、俳句は何も難しいものでも特別なものでもないという事を
「ひょっとしたら私にもできるかな?」と思えるようなSさんなりの自然な言葉で教えて下さいました。
最後に一番最近詠まれた句を教えて下さいとお願いすると、「あれ?なんだっけ?自分が作った句を忘れるようじゃダメねぇ〜」と言いながら
下のような句を披露してくださいました。
お話を伺っている間中、笑顔が耐えないSさんでした。
控えめなのに、何か言葉を発するときはその言葉に勢いが感じられます。
これはSさんの中にまだまだ沢山の言葉が潜んでるという事でしょうか。
これからも句作を通じて素晴らしい575の言葉の芸術を生み出して頂きたいと思いました。
昭和6年愛媛県生まれ(松山市在住 主婦)
平成4年 三木 照恵先生に師事
平成5年「櫟」入会
平成6年「櫟」同人
平成8年 句集「蔵」刊行
平成9年 俳人協会会員 |
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2003.4.21
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